2012/04/23

泉目吉の変死人形

「日本怪奇幻想紀行〈4之巻〉芸能・見世物録」(同朋舎 2000)に収録された、木下直之 「見世物から江戸を覗く」に人形師泉目吉による変死体人形の見世物に関する記述があったので抜き書きしておく。

文中の出典元として記載されている「藤岡屋日記」とは、「神田御成道で古本屋を商う傍ら、市井のニュースを集めては切り売りした藤岡屋須藤由蔵の日記」のことで、この須藤由蔵なる人物もなかなか気になる人物 (Wikipedia : 須藤由蔵) 。

一年前の「三人娘身投げ一件」とは弘化四年(1847)に起きた、江戸の大川(現在の隅田川)に若い娘三人が腰帯で互いの腕を結び付けた状態で水死体として発見された事件で、当時大変な話題になった事件のこと。

烏が死骸の腹をつつく —— 変死人形

 『藤岡屋日記』には、翌嘉永元年(1848)六月、回向院で行われた京都嵯峨釈迦如来開帳に当て込んで。一年前の「三人娘身投げ一件」が見世物になったことを伝える記事があったらしい。らしいというのは、『藤岡屋日記』の原本は大正十二年(1923)の関東大震災で焼失しており、現在に伝わるものはその直前に東京市によって製作された筆写本である。惜しくも、嘉永元年上半期部分を収録した第二十巻が欠けている。朝倉夢声がその著作『見世物研究』(1928)の中で、つぎのように書いたのは、彼が原本第二十巻を目にしていたからに違いない。

「かく世評の高かつた身投げ一件を、目吉が得意の変死人形に細工したので、回向院境内で興行したのは、六月の下旬であつた。さて二十四文の礼銭を払つて木戸を這入ると、稲荷川岸を模した水中に、三人の娘土左衛門が、互に細帯で身を繋ぎ合つたまゝ、仰けに浮上つてゐる。其水脹れした顔面から四肢、さては着物や帯に至る迄、昨年の一件物に髣髴たるのみか、死骸の上にとまつた烏二羽が、水脹れした腹をつゝくので、更に凄惨の気を漲らせるのであつた。是は水死人形の腹に、泥鰌を入置いたものを、足を結びつけられた烏の食ふのが、さながら腹の肉を啄むやうに見えるのであつた。『藤岡屋日記』に此見世物を記して、大入によく詰込んで烏まで食もたれするゑらい評判。とある」

 想像するのもおぞましい見世物だが、泉目吉という人形師は確かにそんな変死人の人形を売り物にしていた。初代林家正蔵がはじめた怪談噺の小道具や仕掛けをつくったことでも知られる。すでに十年前、天保九年(1838)三月十七日より回向院ではじまった井の頭弁財天開帳で、参詣客相手の目吉の見世物が評判になった。斉藤月岑は『武江年表』に「境内にて人形師泉目吉の細工にて、色々の変死人を作り見せものとす」と書き入れている。

 四壁庵茂蔦という人物に『わすれのこり』という随筆がある。そこでも、泉目吉のこれまたぞっとするような世界が語られている。

「泉目吉、本所回向院前に住居して人形師なり、此者幽霊生首等をつくるに妙を得たり、天保の初め造るところの物を両国にて見せたり、其品には土左衛門首縊り獄門女の首を其髪にて木の枝に結ひ付け、血のしたゝりしさま、又亡者を桶に収めたるに、蓋の破れて半あらはれたる、また人を裸にし、木に結ひつけ数ヶ所に疵を付、咽のあたりに刀を突立てたるまゝ、惣身血に染みて目を閉ちず、歯を切りたる形ちは見る者をして、夏日も寒からしむ、婦人小子は半見ずして迯出るものおほし、されどもこわいもの見たがる人情にて、却つて大あたりせし、此類ひの見せもの外にも多く出来たり」

 どうやらこんな悪趣味な見世物に携わった人形師は、泉目吉ひとりではなかったようだ。

「見世物から江戸を覗く」木下直之 (日本怪奇幻想紀行〈4之巻〉芸能・見世物録 同朋舎 2000)より

この泉目吉なる人形師について、古河三樹「図説 庶民芸能—江戸の見世物」にも記述があった。

化物細工の名人

 当時、化物細工の製作に奇巧の腕をふるって大評判になったのは、二代目の目玉の吉兵衛といわれ、為永春水が「似顔人形茶番道具の細工名人と聞えたる泉目吉」といった通り、彼は当時、江戸八百八町に誰知らぬ者のないほどに名高い人形細工人であった。目吉の初代は諸寺色彩師の泉屋吉兵衛。目が大きかったので目玉の吉兵衛と言われ、略して目吉。人形の際物だけで、化物製作には手をだしていない。

 二代目の目吉は、少年の頃から、初代目吉の家に住み込み、親方の作る蝋人形の技術を身につけ、さらに工夫をこらして初代以上の作品を製作するようになったといわれ、本所回向院門前に住み、芝居や茶番狂言の怪物の人形小道具の類或いは屋敷方の飾人形などを引受ける店を浅草仲見世に開いて生業とすていた。春水の『春色恵の花』(天保七年版)にはその店頭の図が挿画に載せられている。

 天保九年三月に両国の回向院で、井の頭弁財天の開帳があって、いろいろな見世物小屋が軒をならべ、見物人が群集した。中でも評判になったのは、泉目吉作変死人形競であった。

「図説 庶民芸能—江戸の見世物」古河三樹 著 雄山閣 1982 より

以下に、先に抜き書きした木下直之「見世物から江戸を覗く」にも引用されている四壁庵茂蔦の文章の引用が続く。

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